montanayutaの日記

人を動かす言葉を書きたくて。鍛錬したい。

短い文章じゃなくて、長い文章を

 

最近は、短い文章しか読まれていないんじゃないかと思う。

それはツイッターを代表として、あらゆるネットの基盤が小さな枠の乱立で成立しているから。そのフォーマットにのると、そうなってしまうのもある。

 

けれど、やっぱ短い文章って限界があるんじゃないかな。

たしかに、長い文章を書くことは難しい。このブログを始めてからよりそれは痛感する。長い中に相応の中身と、それらを首尾一貫、まとめ上げる手間。

それはやっぱプロのなせる技かもしれない。難しい。

それに比べて短い文章って楽だ。曖昧さ、それはそれで美しいのだけれど、曖昧さにかこつけて甘えてるんじゃないかな。

 

短い文章じゃ、事実しか伝わらない気がする。「今日は誰々とご飯を食べた」「自分はこれが好きだ」「こんなのは良くない」

それ以上の何か。何かはないのかい?あるはずのものが消されたり、伝わらなかったり。本当と嘘、本気とそうじゃないの区別がつかなくなったりする。あなたの本気は本当に本気?

大変だけど、頑張ってしたためられた文章は、本気と本当の何かが事実以上のその人のものとして出ているし、受け取れる。と思う。

 

長があるから短が映える。というのもあるよ。

俳句や短歌の美しさとか。そうだろ。

5.7.5に並ぶ140文字っていう型はそれなりに面白い縛りではあるよ。あるけど、今はそうじゃない長い文章が蔑ろにされてるんじゃないかって思ってしまう。

 

あと、ツイッターだけでいうなら、140文字というフレームに制限されている気がする。

私もツイッターで何かを投稿するとき、思ったままに文章打つと140文字を超えてしまうときがある。そのとき、言葉を言い換えたりしながらなんとか枠内に収めようとすることがある。

それによって、自分の本来の言葉、微妙なニュアンスが変化してしまうこともしばしばある。

そう、本当に言いたかったことじゃないけど、画素数を下げて発信。

やっぱよくないって。

 

あと、スマホで文字を打つときにすぐ出てくるおせっかいな予測変換。あれもなんか、自分の頭の変換を邪魔されてる気がする。これは私の書いた文章なんだろうか?と思う。

 

少し話がずれてしまいました。

 

ツイッターで短い文章に慣れてしまった人たちに読んでもらうためには、ニュースでさえもあれ?もう終わり?っていうくらい短かったりする。

 

短い文章が繁栄する理由としてもう一つ、ネットにのる文章って読もうと思って読むものではないっていうのがあると思う。

移動時間などちょっとした暇つぶしにスマホをスクロールして、ちょっと文章を読んで、気になったらタップして。ただ次の駅で降りなきゃ行けないのに、何1000字の文章なんて読めやしない。そんな習慣だから、時間を用意してないから、長い文章じゃなくて短い文章ばかりが読まれていく。のかなと思う。

 

1000字近く書いてきたけど、何がって、この文章は完全に自分にブーメランなんだよね。

 

短い文章の余白が好きだというのはもちろんだが、詳しい表現をするほど引かれたり、自分のボロが出るのではないかと長い文章から逃げてしまっている自分がいる。間違いない。

そして例に漏れず短い文章になれた自分は、長い文章を読むとき、長いなあと思ってしまうことがある。

 

でも長い文章を読み切った先に事実以上のその人が見えるし、長い文章を書ききったときに本当に伝えたかったことが伝わると感じる。

そういった体験がいくつもある。

 

だから読んでほしい。し、自分でも読むし、作りたいと思う。

 

ああ、長い文章を書くのは難しい。