日々、服を着ると思うこと
好きなものとは何なのか、それを突き詰めてしまうと、どうにも生きていくのは時に窮屈と感じた。
例えばその1つに洋服が挙げられる。
好きな服を着て自分がこうありたい、という姿になれたらそれが最高なのだけど、それを毎日維持することは難しい。
もちろんもしも私がお金持ちで、私に似合う素敵な洋服ばかり溢れた世界ならば、それは苦労しないかもしれない。
けれど、現実は全くそうではない。お金はないし、スタイルも良くない凡人が着ても決まる服なんてなかなかない。クローゼットには昔の突き詰めていなかった頃の洋服たちがまだ居座っているし、先述の理由からそれらを追い出すほどの洋服は手にできない。
だからよっぽどお気に入りの服を着る日以外は思うんだ、「ああ、またなんか普通のぼんやりとした格好をしてしまっている。」と。
それで何となく落ち込む。
こだわりがなければ、好きなものがなければこんなことで悩むことはないんだろうなと思う。
だからそれから逃げるために、敢えてジャージやスウェットを着ることが増えた。
「これは私の好きな洋服を着ているのではなく、体を覆うものとしての洋服を着ているのだ」
簡単に言うとオンとオフということかな。
逃げだっていうのもわかるけど、毎日毎日自分の至らなさに落ち込むのは辛い。
サカナクションの山口一郎は同じシャツを何着も持っている。自分はこれしか着ないという意思を持って洋服を見ると、自分が着る着ないを超えて“もの”として洋服を見ることができるそうだ。(サカナLOCKS.2017.12.7放送)
ああ、これかもしれない。と思った。
自分を定めることで、自分が着るものと好きなものとしての洋服を分けることができる。
でもそれって、自分がこれしか着ないという「自分の服」があるからできることであって、それに辿り着けなきゃまだまだ鏡に映る自分を見てもやもやするだけじゃないか。
彼の「自分の服」はコムデギャルソンの黒シャツであるが、ギャルソンを「自分の服」にできる日なんて私にはいつ来るかな。