montanayutaの日記

人を動かす言葉を書きたくて。鍛錬したい。

従姉妹の娘と芦田愛菜と身勝手な話

従姉妹が産んだ子が一歳になったそうだ。

従姉妹のインスタグラムには、餅が入っているであろう布のバックを背負わされた赤子が、いごいご動いては泣き出す動画が上げられていた。画面に映りはしないが、おそらく従姉妹夫婦や赤子の祖父母と言える人たちの、まだ言葉も話さない赤子にめいめい声をかけている賑やかな音も入っている。コロナ禍の東京に一人暮らしをしている人間としては、同じ時とは思えない温かな空気感が伝わってきた。

 

従姉妹の子供なので、姪っ子とは言わないが、しかしお年玉をあげる関係性ではあるだろうと自覚はしている。

世間の情勢からこの正月は実家に帰らなかったので、このお年玉問題に直面することが回避できていたと気づいて胸を撫で下ろした。「結婚」というイベントのリアリティのなさに気を取られていたが、そんなことよりも「自分がお年玉をあげるようになる」という行為が唐突にリアリティを飛び越え、いきなりリアルとして現れてくるとは思いもしていなかった。

立派なおばさんの始まりだ。これから何年、何十年この子を見ていくんだろう。親戚内でも一番最後に生まれた私にとって、私の意識がある中で成長していく人間を見るのがこれで初めてになる。

 

 

先日たまたまNHKでアートを特集する番組を見た。その回はお正月の特別編だったらしい。

スタジオには弧をえがいた机に4人が座り、左から進行役のアナウンサー、同じく進行役で主にアートの解説を担う男性、ゲストとして芦田愛菜、そして森美術館の現役館長。

他の3人に比べれば、芦田愛菜の並びにはとても違和感がある。NHKらしい真面目な番組の中でも、とりわけアートというなんともとっつきにくいジャンルに芦田愛菜という少女がキャスティング。専門的なことを一般の人の感性も交えて番組を構成するというのはよくあるが、そういう番組の中の一般の人というのは、“無知さ”を過剰に押し出していることが散見される。(それが私は嫌で見なくなることもある。)ましてや少女にその役を担わせれば、“無知さ”と結びつくか弱さを増幅させて、それはもうすごい威力になるだろう。

しかしこの番組は違った。なにせ「アート」という正解のない抽象的なものを扱うため、教え教示するという形ではなく、「あなたはどう感じましたか?」という形で芦田愛菜に問いかけられるのだ。

なんて難しいのだろう。私はアートに比較的造詣がある方だと思う。しかし何を現しているのか、何の意味があるのかわからず通り過ぎてしまうものなど山のようにあり、考えを述べれるのは自分の心に引っ掛かり主体的に解いたものだけであり、数点にしか過ぎない。

けれどここで芦田愛菜は、異なる人が紹介するあらゆるジャンルのアートについて、それぞれどう感じたかを求められる。そんな中でも、彼女はそれらに対してひとつひとつ丁寧に言葉を並べて答えるのであった。自分が持つ知識(それもとっぴなものでは無く、「教科書で見たとき」などといった地に足のついているもの)と照らし合わせた上で、アートだから神秘だとかいう無責任な内容に飛ばしてしまうこともなく、難しくない素直な感性の言葉。

私は深く深く感心してしまった。

 

言わずと知れた名子役、芦田愛菜。彼女をしっかりと追いかけてきたわけでは無いけれど、「マルマルモリモリ!」と歌う幼い彼女の姿は、「Mother」も「マルモの掟」も見ていない私でも記憶に鮮明にある。

片手間で見る芸能ニュースで、彼女が常に芸能界の1人の存在として活躍し続け、さらに勉強も怠らず優秀な学校に入ったということも知っている。「もう愛菜ちゃんもこんなに大きくなったんだね」そりゃ年も経てば大きくなるよな。なんて当時興味のなかった私はぶっきらぼうに思っていたが、彼女の魅力を知った今、彼女を追いかけてみたくなった。

あのNHKで凛として座り、歳のいった解説者にも「芦田さん」と呼ばれる彼女にいつの間になっていたのか。昨年の秋に見た「星の子」という彼女主演の映画もとてもとても素晴らしかった。

 

「結婚をしたい」とは必ずしも思わないけれど、数年前から「子供が欲しい」とぼんやりと思うようになった。それは単純な母性ではなくて、「どうやって私はこういう人間になったのか」「遠い過去で無くしてしまったあの頃に何を思っていたのか」ということを、自分の子供を通して見つけられるのではないかと考えはじめたからだ。さらに、1人の人間が生まれ、育ち、心が樹木のように複雑に育っていく過程を側で見たいと思ったからだ。

こういった理由話すと引かれそうで、話せない。自分にしかまだ興味を持てていないという今の私を、よく現している思考だと思う。

だから「結婚」がまだまだ遠い私にとって、従姉妹の娘という存在は、ある意味成長の過程を見守る擬似的存在になっていくのかもしれない。芦田愛菜という存在も、赤子と私の中間を走る擬似的存在に。彼女たちには失礼な、なんとも自分勝手な話。

 

一方で、自分のこの自己のみに向けられる興味(他人に興味はあるが、それはあくまで自己対比のための他者研究的側面が強い興味)にいつ変化が現れるのか、それが何に起因するのかは、今後何よりも重点的に観察すべき事項であると感じている。決定的な恋でもするのか?一生変わらなかったらどうしよう。