montanayutaの日記

人を動かす言葉を書きたくて。鍛錬したい。

2022.06.26小沢健二

ガーデンシアターのバルコニー席は立ち上がるのが怖いくらいの傾斜。ふとした瞬間に足を踏み外せば、アリーナに落ちてしまいそう。興奮のあまり前のめりになった拍子に、華麗な一回転を見せて落ちていけそう。

そう、そこに落ちていきたい衝動に何度も駆られた。ピンクとグリーンの明かりが揺れる海の中に。

 


こんなバルコニー席だから、ライブが始まっても座ってる人が多かった。私もそう。だけど、一曲目、壮絶な「流動体について」が鳴り響き、渦のようにストリングスが高まる中、座ったままじゃいられなかった。後悔すると思った。膝に置いたリュックを抱えて立ち上がり、座席に置こうと振り返ると、後ろのお客さんも既に立ち上がって拳を振り上げていた。徐に右隣の男性も立ち上がった。そうだよな。間違ってないよな!

 


「lights on!つけろ!」の言葉でピンクとグリーンの光が花が咲くように客席に現れた。電車の遅延で物販に並ぶ余裕のなかった私は、悲しいかな光らない手首。すごく後悔した。だけど気持ちの中では光っている。あたかも電子回路を付けているかのように腕を振った。

 


全身が高揚し、まさに心に滞留する液体が沸騰して溢れ出てきたような気持ちだった。ピンクとグリーンの光が目の中で淡く滲む。それもまたきれいだった。

 


過去の中にも未来がある。今も未来につながっている。新旧の楽曲を混じりあわせ、想像もつかない曲繋ぎをばんばん繰り出してきた。最近の曲をやってたのに急にサビ前で飛んで、90年代の曲が始まる。そしてひとしきり歌い、忘れた頃に元の曲のフレーズに高らかに戻ってくる。

今はいつも過去を参照しており、そして過去の中に今につながるものを見つける。その繰り返し。それを表しているのかと思った。きっとそう。

アルペジオや強い気持ち•強い愛のあのフレーズが戻ってきたときの鳥肌はえぐかった。

 


壮絶なオザケンメドレーに加え、「離脱!」って叫んでこちらのリズムを狂わせてきた。「ちゃんと曲聴かせてくれよ〜笑」なんて思ったけど、これは今日だけの私たちと小沢さんのふれあいなんだよな。決してiPhoneからは聞こえてこない魔法の音楽なんだなって思った。

 


アルペジオや運命、というかUFOなんかにある語り的ラップパート。息継ぎも無いのではと思わせる、圧の強い言葉の羅列。そこがとても好きだ。叫んでるようにも聞こえるオザケンの声が私の耳にこびりついている。これを消したくない。

勝手に自分で再現して、強くラップしてみたりする。すごく強い気持ちになれる。

 


一曲一曲に思い出がのっている。初めてその曲を聴いた頃、ヘビーローテーションしてた頃、何かの拍子に思い出に結びついている曲。

アルペジオは、大学生の頃、好きな先輩たちの卒業を待つ頃、自転車に乗りながら。大人になればは、卒業して離れた友達にレコメンドしてあげた。ある光は、就活にのまれ自分はなんだって悩んでた頃。彗星は、社会人になって一年目、この生活が正しいのか不安だった頃。

そういう記憶がふっとよぎる。懐かしさに微笑んでしまう。

 


就活中、ある光の“この線路”とはまさに“普通の就職”をすることだった。

「この線路を降りたら」って歌いながら、本当に降りてしまえばいいと思った。会社員なんてクソみたいなもんだったと思ってた。

でも今は。今だって、会社員は辞めようと思っている。それは思っているんだけど、、、安易に降りたらなんて言えない。この暮らし、この生活だって悪くないんだもの。テキトーに言えば、丸くなったとか牙がなくなったとか、擦れたとか、そう言われちゃうんだろうけど、そういうんじゃなくて。この生活の中にも喜びがあって、素敵な人がいて。

それでも「降りたら」って歌うなら、それは投げやりなあの頃の歌い方じゃなもうないんだ。

 


彗星を初めて聴いた時、生活の全肯定についていけなかった。社会人一年目、私はこの生活を肯定できるのか。曲は素晴らしいけど、なんだか心が置いてけぼり。

でも今なら、今ならわかる。この生活の尊さ。

たくさんの人がいて、今の人も過去の人も、すれ違う人も、それぞれが奇跡のような交差で生きている。喜びも悲しみもぶん殴られたような日も、私はそれをいつのまにか幾つも踏みしめてここに立っている。それは決してドラマにも映画にもならないことだけど、私の中に無限にある世界。そう、宇宙。な気がした。

 


こんなに生きていると言うことを肯定する歌詞を書く人は今のところまだ知らない。もちろん人生とか生活っていうのは、酸いも甘いもあり、ほろ苦く、苦虫を噛み潰すようなこともめちゃめちゃあるんだけど、でもその中でそれにぶつかりながらも生きていってるその強さと儚さと尊さを、素晴らしいって、そう全身で歌ってる。 

 


単純なことを言いたいのに、どうもこねくり返った文章になってしまう。ややこしい私の文章もどこかの誰かに読んでもらえるだろうか。

奇跡なんだよこの生活は。ひとつひとつの神秘を、今はあの頃より噛み締めている。

 


2年の延期。私にはちょうどよかったのかもしれない。今、小沢健二のライブに来れて。

これもひとつの神秘的な奇跡の普通の生活。

 

従姉妹の娘と芦田愛菜と身勝手な話

従姉妹が産んだ子が一歳になったそうだ。

従姉妹のインスタグラムには、餅が入っているであろう布のバックを背負わされた赤子が、いごいご動いては泣き出す動画が上げられていた。画面に映りはしないが、おそらく従姉妹夫婦や赤子の祖父母と言える人たちの、まだ言葉も話さない赤子にめいめい声をかけている賑やかな音も入っている。コロナ禍の東京に一人暮らしをしている人間としては、同じ時とは思えない温かな空気感が伝わってきた。

 

従姉妹の子供なので、姪っ子とは言わないが、しかしお年玉をあげる関係性ではあるだろうと自覚はしている。

世間の情勢からこの正月は実家に帰らなかったので、このお年玉問題に直面することが回避できていたと気づいて胸を撫で下ろした。「結婚」というイベントのリアリティのなさに気を取られていたが、そんなことよりも「自分がお年玉をあげるようになる」という行為が唐突にリアリティを飛び越え、いきなりリアルとして現れてくるとは思いもしていなかった。

立派なおばさんの始まりだ。これから何年、何十年この子を見ていくんだろう。親戚内でも一番最後に生まれた私にとって、私の意識がある中で成長していく人間を見るのがこれで初めてになる。

 

 

先日たまたまNHKでアートを特集する番組を見た。その回はお正月の特別編だったらしい。

スタジオには弧をえがいた机に4人が座り、左から進行役のアナウンサー、同じく進行役で主にアートの解説を担う男性、ゲストとして芦田愛菜、そして森美術館の現役館長。

他の3人に比べれば、芦田愛菜の並びにはとても違和感がある。NHKらしい真面目な番組の中でも、とりわけアートというなんともとっつきにくいジャンルに芦田愛菜という少女がキャスティング。専門的なことを一般の人の感性も交えて番組を構成するというのはよくあるが、そういう番組の中の一般の人というのは、“無知さ”を過剰に押し出していることが散見される。(それが私は嫌で見なくなることもある。)ましてや少女にその役を担わせれば、“無知さ”と結びつくか弱さを増幅させて、それはもうすごい威力になるだろう。

しかしこの番組は違った。なにせ「アート」という正解のない抽象的なものを扱うため、教え教示するという形ではなく、「あなたはどう感じましたか?」という形で芦田愛菜に問いかけられるのだ。

なんて難しいのだろう。私はアートに比較的造詣がある方だと思う。しかし何を現しているのか、何の意味があるのかわからず通り過ぎてしまうものなど山のようにあり、考えを述べれるのは自分の心に引っ掛かり主体的に解いたものだけであり、数点にしか過ぎない。

けれどここで芦田愛菜は、異なる人が紹介するあらゆるジャンルのアートについて、それぞれどう感じたかを求められる。そんな中でも、彼女はそれらに対してひとつひとつ丁寧に言葉を並べて答えるのであった。自分が持つ知識(それもとっぴなものでは無く、「教科書で見たとき」などといった地に足のついているもの)と照らし合わせた上で、アートだから神秘だとかいう無責任な内容に飛ばしてしまうこともなく、難しくない素直な感性の言葉。

私は深く深く感心してしまった。

 

言わずと知れた名子役、芦田愛菜。彼女をしっかりと追いかけてきたわけでは無いけれど、「マルマルモリモリ!」と歌う幼い彼女の姿は、「Mother」も「マルモの掟」も見ていない私でも記憶に鮮明にある。

片手間で見る芸能ニュースで、彼女が常に芸能界の1人の存在として活躍し続け、さらに勉強も怠らず優秀な学校に入ったということも知っている。「もう愛菜ちゃんもこんなに大きくなったんだね」そりゃ年も経てば大きくなるよな。なんて当時興味のなかった私はぶっきらぼうに思っていたが、彼女の魅力を知った今、彼女を追いかけてみたくなった。

あのNHKで凛として座り、歳のいった解説者にも「芦田さん」と呼ばれる彼女にいつの間になっていたのか。昨年の秋に見た「星の子」という彼女主演の映画もとてもとても素晴らしかった。

 

「結婚をしたい」とは必ずしも思わないけれど、数年前から「子供が欲しい」とぼんやりと思うようになった。それは単純な母性ではなくて、「どうやって私はこういう人間になったのか」「遠い過去で無くしてしまったあの頃に何を思っていたのか」ということを、自分の子供を通して見つけられるのではないかと考えはじめたからだ。さらに、1人の人間が生まれ、育ち、心が樹木のように複雑に育っていく過程を側で見たいと思ったからだ。

こういった理由話すと引かれそうで、話せない。自分にしかまだ興味を持てていないという今の私を、よく現している思考だと思う。

だから「結婚」がまだまだ遠い私にとって、従姉妹の娘という存在は、ある意味成長の過程を見守る擬似的存在になっていくのかもしれない。芦田愛菜という存在も、赤子と私の中間を走る擬似的存在に。彼女たちには失礼な、なんとも自分勝手な話。

 

一方で、自分のこの自己のみに向けられる興味(他人に興味はあるが、それはあくまで自己対比のための他者研究的側面が強い興味)にいつ変化が現れるのか、それが何に起因するのかは、今後何よりも重点的に観察すべき事項であると感じている。決定的な恋でもするのか?一生変わらなかったらどうしよう。

 

 

 

「25歳理論」

「25歳理論」って聞いたことあります?

 
『25歳までに受けてきた影響、見てきた物でその人の人格は形成される』というものです。

これは私がかれこれ10年程追いかけているPerfumeあ〜ちゃんが、25歳を目前としていた時期に話していました。
7年も前、当時17歳の私はなんとなくそれを信じて、ただ25歳という漠然とした数字にリアリティはなかったでしょう。
それから理論を提唱していたあ〜ちゃんもとっくに25歳を過ぎ、私もいつの間にやらいくつも歳を取り、この理論のことなど頭から薄れていました。

「人間の体は25歳であらかた決まってしまうんです。」
つい先日、体験エステでお姉さんにそう諭されたとき、ふっと「25歳で人格が決まる」と話すあ〜ちゃんの声が頭の中に甦りました。
気づけば24歳にまでなっていました。

理論を完全に信じているわけでは無いけれど、25歳までの人生というのは、ひとつ人生の区分として意味があるような気もします。

サカナクションの山口一郎は20代前半までの経験や感覚の貯蓄で詩を書いていると言っていました。(これはソースが見つからなかったので曖昧)
それほど貴重なものなのか。それ以降を生きてみないとわからないけれど、確かにめくるめく年月、他の年代と比べころころと変わっていく環境と圧倒的な未知との遭遇の連続。きっとそのおかげで私の中にも多くのものが溜まってきているのかな。やや気配を感じます。

そこには嬉しいことやかけがえのないものだけではなく、もやもやした鬱屈したものも、蹴り飛ばしたいものもどんどんと折り重なってきています。社会人になってからはより“現実”な蓄積物の重さに、石を食べたようです。

「25歳って最もたるときじゃん!」
何がかというと、“こうあるべき”というものとそうじゃない孤独との摩擦が。
つい先日の星野源のラジオでそう言ってました。やっぱりな。どうも胃が重たいわけだ。

やはり25歳は独特な時期な気がする。
今までの四半世紀の人生の蓄積と、新たにぶつかる壁との狭間で。「荒波に揉まれる」という言い方をしますが、どちらかと言えば私が荒波で、ひたすらそり立つ壁に向かってぶつかっては砕け、またぶつかっては砕けしている気分です。


こんなふうに普段から引用の多い私ですが、自分の言葉も形にしたい。
そう思って昨年の後半から積極的に自分の言葉のアーカイブを始めました。ライブや展覧会などきっかけが有ればやっていたことですが、そういう感想などじゃなくて、自分の日常の中の気持ちと感覚のアーカイブを。

25歳まであと7ヶ月。です。
2021。おめでたい四半世紀アニバーサリー。せっかくだから、お腹の中に積み重なってきたものも全て含めて、もがきながらも自分を抱きしめていきたいな。

分霊箱って知ってる?要は、そんな感じ。

好きな問題のひとつに「何が私なのか」がある。

 

心臓や脳みそが私か。きちんとわかりやすく私の肉体が私なのか。

では腕がもし切り落とされたら。切り落とされた腕を見て、「ああ私が落ちている」と思うのか。そこまでいかなくても、この抜けた髪の毛や割れた爪はどう?

 

じゃあもっと言うと、いま目の前にあるコップに入ったお茶は、この後私の体に入って私の肉体になるのだから、“予期的私化”がすでに起きていると言ってみよう。

 

さらにさらに言うと、私の肉体の中身である思考を具象化したノートや日記だって。具体として存在もしないこのブログは、私?

 

きっとそこらじゅうで私は現れて、どんどん取り込まれて、撒き散らされ続ける。

 

ハリーポッターのヴォルデモートが作ってた分霊箱って知ってる?きっと、そんな感じ。

一見私と見えなくても、触れればその時の私が蘇る。そういうのを作り続ける。

 

 

 

「30万年の時計」をトイレに飾った

森美術館に行ってきた。

コロナウイルスの騒動が始まる間際の2月以来、半年ぶり。年間パスポートはご丁寧に延長していただけた。

 

開催中はSTARS展。日本を代表するアーティストたち6人の代表的な作品が一堂に並ぶ。

村上隆李禹煥草間彌生、宮島達男、奈良美智杉本博司

 

恥ずかしいことに杉本博司だけは知らなかった。逆に言えば他の5人を知れていたというのは、自分の知識と経験の蓄積を感じて嬉しくなった。

草間彌生は突出してポピュラーだと思う。李禹煥は直島に行った時に感銘を受けた。宮島達夫は複数の美術館で作品を見るたびに、深く刺さりここ一年でようやく名前を覚えた。村上隆奈良美智は最近雑誌で読んで認識した。

 

 

今回はこの6人の中で宮島達男だけの話をする。この日記は美術展の感想を述べたいわけではないのだ。

 

本展には彼の1987年の作品「30万年の時計」が展示されていた。

宮島達男はデジタルカウンターを用いた作品をつくる。デジタルカウンターとは0から9をひたすら繰り返す文字通りカウンター。デジタル時計のあの上下尖った棒で構成された数字が、ひたすら繰り返されるもの。それらを組み合わせて様々な作品をつくる。

「30万年の時計」とは、そのデジタルカウンターを14個用いた、理論上30万年の以上の時を刻むことができる物だ。

たった14個の数字が並ぶだけであろうこの機械が、30万年の時を内包しているのである。

 

 

自分は物持ちがいい方だと思う。もちろん新しいものもあるし、躊躇なく物を捨てることもあるが、それを所有する意味をひとつひとつに見出したいと考え、長く持っていたいと思っている。

けれど、自分と添い遂げるようなものってどれだけあるだろうか。私は24年ばかりしか生きていないが、私と同い年のもの、私よりも長く生きているものをどれだけ持っているだろうか。考えても何も出てこない。書き溜め続ける日記は10年も遡れないし、やたら命の長い鉛筆といえど小学時代の残り物。

これから先は?その努力はしたい。

 

上司と飲みに行った時、酔っ払った彼が財布の奥から取り出したのは、古い紙切れだった。和紙のようなものに筆字で羅列されていたのは、彼の名前の候補だったらしい。上司が生まれたのとほぼ同時に、親が偉いお寺に名前を尋ねに行き、その候補の中から選んだのだと。親の葬式の後、偶然見つけたのだと彼は嬉しそうに見せてくれた。

 

忙しない日々、入れ替わり立ち替わりの物たち。それを超える何かひとつを持っていたい。と強く思う。それをとても欲している。

 

 

時は超越することはできない。ただひたすらに1秒を積み重ねていくだけ。

私は遥かなる世界のカウントに乗っかるだけ。

そのカウントの中に私は幾つのものを生かせてゆけるのか。すぐに消えてしまうものではなくて。

 

ミュージアムショップで、「30万年の時計」のポストカードを買って帰り、フレームに入れてトイレに飾った。

トイレの扉を開けてそれを見る時、この14のカウンターに内包された30万年のカウントを、思わずにはいられない。今、何カウント目か。それは焦らせるものではなくて、短期的に切り取りがちな世界からの暫しの離脱であり、戒めでもある。

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30日目

5月24日(日)

 

明日にも緊急事態宣言解除が濃厚になっている。急すぎないか。

 

今、喪服を探している。検索していろんな喪服を見ているが、どれもしっくりこない。同じような形が並んでいる。どれも自分が着るイメージがつかない。

滅多に着ないもの、だから長いスパンで着ていくもの。気にいっていないものは買いたくない。ワンピースや膝下スカートばかりなので、「喪服 パンツ」で検索すると、いくらか出てくる。検索結果の中に「喪服でパンツスタイルはマナー違反?」という記事が。パンツはワンピースやスカートに比べてフォーマルではあまり無いとみなされるらしい。近親者の葬儀、通夜の場合は避けた方がよろしいとな。

マナーとはなんぞや。たぶん私はパンツを買う。

 

毎日30日間続けるって、特になんでもなかったかな。ただ、無理に書くことのしんどさを小さいながら体験できたことは良かったと思う。

長い文章を書いた日もあった。Twitterでは削ぎ落とされてしまう文章を好きに挿入できるのは、とても健全で、簡略・端的が正義とされる環境にいすぎていると思い出させた。

 

無理に毎日書くことはやめよう。書きたかったら書こう。でもそうすると、たまに発信する文章が、大層なものでなくてはならないっていう変なプレッシャーになるんだよなー。毎日無理に書いてる方が、駄作であろうと構わないという気があって楽。

 

♫「街の報せ」cero

街の報せ

街の報せ

29日目

5月23日(土)

 

家の周りを散歩していくと、ずっとずっと住宅が並ぶ。右に一軒家、左にファミリーマンション、その先右に二世帯住宅、左に古めのワンルームマンション。1時間近く歩いたが、同じようでたまに変わった住居が並ぶ。

あのカタカナ+地名のシリーズすごいよね。どれだけバリエーションあるんだろうか。絶対もう、わけわからん意味の言葉を使っているだろう。何語かさえもわからないよ。ひとつひとつ心の中で読み上げて歩いた。

夕暮れ、住居の光が薄暗い中で映えるとき、その光の一つ一つに一人一人がいるのだと当たり前のことを気づく。一人一人どころではなく戸建てやファミリーマンションならひと家族ひと家族がその光のなかにある。目の前の数十階建てのマンションを見上げると、圧倒され心がどこかに落ちていく気がする。私の全く知らない人たちの暮らしがあの箱の中で何十個も動いていて、その箱がそこら中にひしめき合ってある。田舎者だからか、少し怖くなるんですよね。

 

♫「ダスト」星野源

ダスト

ダスト